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連載「古に現を見ゆ」(4)音楽の普遍性

 前回の投稿から時間が経ってしまいました。

 今回は「なぜミヒャエル・ハイドンの音楽はあまり演奏されないのか?」ということで、9月28日に開催した「#01 優美で多感な娯楽音楽」のプログラムに書いた前口上を掲載いたします。






 本日はご来場いただきまして誠にありがとうございます。おかげさまで、ミヒャエル・ハイドン・プロジェクトの記念すべき第1回公演が始まろうとしています。大好きなミヒャエル・ハイドンだけのコンサートができたら良いなと思い立ってからわずか半年、まさかこんな大掛かりなプロジェクトになるとは思ってもみませんでした。出演者の皆様、見ず知らずのわたしに親切丁寧に多くのご助言をしてくださった西川先生、さまざまな制作業務をこなしてくれたスタッフ、そしてご来場いただいたお客様には、もう、感謝の気持ちでいっぱいです。


 さて、現代の日本でたびたび演奏されるクラシック音楽の作曲家を並べてみたとき、古典派の頭数は多くありません。ロマン派の作曲家ならわんさか演奏されるにも関わらず(それでも埋もれている天才はおりますが)、古典派というとほとんどがモーツァルトとベートーヴェン、たまにヨーゼフ・ハイドン。それはなぜでしょうか。

 わたしが考えるひとつの可能性は、歴史に埋もれてしまった彼らの音楽には普遍性がなかったのではないか、ということです。誤解を招くでしょうから、説明いたします。

 古典派の時代に使われていた楽器は、現代使われている楽器と、素材や構造が大きく異なります。楽器だけではありません。演奏のスタイルも異なります。たとえばモーツァルトやベートーヴェンの音楽には強度がある。だから後の世に登場した楽器に(ある種)翻訳されて演奏されたとしても、音楽の価値は失われなかった。一方で、衣装を変えるだけでその価値が崩れてしまうような繊細な音楽も数多くあるのです。

 すごく乱暴な言い方をすると、良いメロディというのは、どんな楽器や演奏法を用いても良いメロディです。一方で、あっと驚くような構造や心に突き刺さるハーモニー、誰も思いつかなかったような音色の重ね方は、楽器や演奏法にその価値が左右されてしまうのではないか。

 ミヒャエル・ハイドンの音楽がまさにそうです。はっきりいって、今日のコンサートで演奏する作品には、モーツァルトやベートーヴェンを凌駕するほど美しいメロディは、まったく登場しません。すべて、ただ「(ソ)ドミソ」というメロディで始まります。だけれども、ピリオド演奏(当時使われていた楽器や演奏法を用いること)でよみがえった彼の音楽は、構造やハーモニー、楽器の扱い方が緻密で、時代も国も異なるわたしの心を鷲掴みにしてしまうのです(彼の「多感」なハーモニー表現は、ガット弦が生み出す音色の陰影があってこそ、です)。

 こんな素晴らしい音楽を秘密のままにしてはいけない。皆様と共有したい。そんな思いから、このプロジェクトを立ち上げました。

 さあさあ、小言は終わりにして、コンサートをはじめましょう!

 おかげさまでコンサートは無事に終了いたしました。アンケートやTwitterなどのSNSを見ていると「面白かった」というコメントの多さに驚かされました。


 公演の模様は、10/12(火)よりインターネットで配信いたします。西川尚生教授によるレクチャーもセットで、なんと1800円ととってもお得です! ぜひご利用ください。


 さて、公演のダイジェストを公開します👏

↓配信チケットの購入はこちらから↓


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