連載「古に現を見ゆ」(3)ミヒャエル・ハイドンの生涯[後編]


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連載「古に現を見ゆ」(2)ミヒャエル・ハイドンの生涯[前編]


 ミヒャエル・ハイドンは教師としても優秀だったようです。弟子にはカール・マリア・フォン・ウェーバー(1786-1826)や、ベートーヴェンの《ディアベリ変奏曲》で有名なアントン・ディアベリ(1781-1858)がいます。いまでは忘れられてしまった音楽家では、後にウィーンの宮廷楽長になったイグナーツ・アスマイアー(Ignaz Assmayer,1790-1862)や、ロシア・サンクトペテルブルグの劇場で楽長を務め、1810年代にはなんとブラジル・リオデジャネイロの宮廷でモーツァルトやハイドンの作品をひろめたジギスムント・フォン・ノイコム(Sigismund Ritter von Neukomm, 1778-1858)などもミヒャエル・ハイドンの弟子です。

 また、弟子ではありませんが、フランツ・シューベルト(1797-1828)やアントン・ブルックナー(1824-1896)など、後世のオーストリアにはミヒャエル・ハイドンの音楽を愛した音楽家たちがいることも見逃してはいけません。ミヒャエル・ハイドンの音楽は、特に宗教音楽の分野で彼らに大きな影響を与えました。

 たとえミヒャエル・ハイドンの音楽それ自体が演奏される機会がいま少なかったとしても、いまに繋がる音楽史に大きな爪痕を残していると言えるでしょう。


 さて、ミヒャエル・ハイドンの晩年は神聖ローマ帝国の終焉と重なります。

 フランス革命が勃発し、革命戦争によってザルツブルクはフランス軍に占拠されました。ミヒャエル・ハイドンの家もフランスの兵士によって略奪され、(おそらくこれがきっかけとなり)ウィーンへ旅に出ます。ウィーンでは、ハプスブルク皇妃マリア・テレジアに依頼されてミサ曲(《聖テレジア・ミサ》MH.796)を初演しました(ソロパートは自ら歌ったようです!)。

 情勢は芳しくありません。既にザルツブルクから逃げていたコロレド大司教は、ザルツブルクの君主権放棄を宣言してしまいます。コロレド大司教は、ミヒャエル・ハイドンがモーツァルトの協力のもと「ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲」を捧げたかつての雇い主です。

 このような状況下で、ミヒャエル・ハイドンはザルツブルグの外に出る誘いを受けますが、それらを断ってザルツブルクに留まります。

 マリア・テレジアから依頼されたレクイエムに取り掛かりますが、健康状態が悪化します。15年前に死んだ年下の友人・モーツァルトと同じように、そのレクイエムを完成させることはできませんでした。そして、フランツ2世がドイツ皇帝退位宣言をして神聖ローマ帝国が消滅した4日後の1806年8月10日、ミヒャエル・ハイドンは友人や弟子に囲まれながら、その生涯を終えるのです。


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