連載「古に現を見ゆ」(2)ミヒャエル・ハイドンの生涯[前編]

(2) ミヒャエル・ハイドンの生涯[前編]


 ヨハン・ミヒャエル・ハイドンは、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの5歳年下の弟として、1737年、オーストリアのローラウという村で生まれます。洗礼を受けたのは9月14日でした。

 ハイドン家は職人と商人の家系です。父マティアスは車の修理工で、村の低級裁判官も勤めました。両親は音楽を愛好しており、子供たちにも歌を歌わせたようです。成人した男きょうだいは3人で(ほかに女きょうだいがいます)、もう1人の弟ヨハン・エヴァンゲリスト・ハイドン(1743-1805)はのちにエステルハージ家でテノール歌手となります。

 彼らは日本でいう小学校に上がるような年齢で、ウィーンのシュテファン大聖堂少年聖歌隊のメンバーになりました。それぞれが五、六歳差ですから、彼らは幼い頃に一緒に暮らしていたわけではないようです。ヨーゼフ・ハイドンはミヒャエル・ハイドンが1歳に満たない頃にウィーンへ行き、ミヒャエル・ハイドンも下の弟がまだ赤ん坊の頃に、兄に次いでウィーンへ行きます。

 兄が声変わりを迎えて聖歌隊から追い出されると、ミヒャエル・ハイドンは兄が持っていた独唱者の地位に就きます。しかし、ミヒャエルもまた、声変わりによって聖歌隊を追い出されました。

 そして1757年、20歳でグロースヴァルダイン(現ルーマニアのオラデア)の司教宮廷の音楽家となり、3年後には宮廷楽長に就任します。この頃、兄ヨーゼフはボヘミアのモルツィン伯爵の宮廷に就職します。そして兄ヨーゼフが1761年にエステルハージ家の副楽長に就任すると、弟ミヒャエルは1763年にザルツブルク大司教宮廷の楽師長(コンツェルトマイスター)になります。

 小さな村で生まれ、少年期に都会の寄宿舎へ。フリーランスを経て中小企業に就職、そして数年後に大企業のポストを得る。兄弟で過ごした時間はあまり長くありませんでしたが、似た人生を歩んでいるのが面白いですね。


 さて、この時代のザルツブルクといえば、モーツァルトを思い浮かべる方が多いでしょう。ミヒャエル・ハイドンがザルツブルクで宮廷楽師長となった6年後、13歳という若さで(無給とはいえ)同じ宮廷楽師長になったのが、19歳年下のモーツァルトです。若きモーツァルトはミヒャエル・ハイドンの影響を大きく受け、あるときはミヒャエル・ハイドンの新作と同じ編成で作品を書き、あるときはミヒャエル・ハイドンの作品を自作に転用しました。

 モーツァルトはその後ザルツブルクを離れますが、ふたりの交流は途絶えません。父や姉に頼んでミヒャエル・ハイドンの作品の楽譜を送付してもらった記録もあります。

 有名なエピソードをひとつ紹介しましょう。

 1783年、46歳のミヒャエル・ハイドンは病に冒されていました。大司教コロレドから「ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲」の作曲を依頼されており、全6曲のうち4曲は完成したものの、残りの2曲に手を付けられません。そこで、ちょうどザルツブルクに帰郷していたモーツァルトが、その2曲を代わりに作曲すると申し出たのです。事実上の共作となった全6曲の二重奏曲*は、ミヒャエル・ハイドン作曲という名目で大司教に献上されました。この真実が明るみになったのは、ふたりの死後、かなりの年月を経てからです。


*この曲は、ミヒャエル・ハイドンの《ソナタMH.335-MH.338とモーツァルトの《二重奏曲》K.423,424です。この二重奏曲を1日のうちにすべて演奏してしまうという企画が、10/14(木)に近江楽堂(東京オペラシティ)で開催される「ミヒャエル・ハイドン・プロジェクト#02 モーツァルトとの友情」です。もっと詳しくて面白い話は、モーツァルト研究で有名な音楽学者の西川尚生慶応大教授によるレクチャー(当日17:00〜)でお楽しみください。後日配信もございます。



次回 ⇨(3)ミヒャエル・ハイドンの生涯[後編]〜歴史への影響と晩年

72回の閲覧