ミヒャエル・ハイドン・プロジェクトが2021年に開催した#01~#05までのコンサートやレクチャーにお越しいただいた皆様、また配信をご覧になってくださった皆様、誠にありがとうございました。この「シーズン1」に関する振り返り企画といたしまして、エッセイストの越水玲衣さんにまとめとレビューをご寄稿いただきました。ぜひお読みください。
【レビューとまとめ】モーツァルトも愛した”音楽の原石”--その波紋を見つめなおした「5つの試み」
越水玲衣
2021年夏。それは唐突にTwitterのタイムタインに流れてきた。
『ミヒャエル・ハイドン・プロジェクト』――白を基調に、十分に余白を取ったキービジュアル。思わず目に留まった。プログラムは全5回。どのプログラムもバラエティに富んだ内容だ。第1回目のディヴェルティメントに始まり、モーツァルトと協力して仕上げた2重奏曲、本邦初であるジングシュピールに、ディッターズドルフの音楽、最後は当時の名演奏家に思いを馳せるナチュラルホルンの世界で締めくくられる。毎回「言葉」で補足するレクチャーやトークまで付いているという。この意欲的なプロジェクトの主宰は布施砂丘彦氏。演奏の他、評論も手掛ける彼ならではの企画はおおいに興味をそそられた。そういうわけで、9月下旬の第1回目から年の瀬の迫る第5回目まで、断続的に続いたこのプロジェクトに足を運んだ。
#01 優美で多感な娯楽音楽『オーボエと弦楽のディヴェルティメント』
2021年9月28日(火)近江楽堂
正直なところ、ミヒャエル・ハイドンの作品は全く知らない。会場に集まって来る人の中にも、彼の曲をよく知っているという人は、どれだけいたのだろうか。開演前の近江楽堂には、そんな未知との遭遇に対する期待と不安が入り混じった空気がどことなく漂っていた。
しかし、オープニング「ディヴェルティメント ハ⻑調 MH27」第1楽章が始まった途端、空気がまるで一変した。会場全体が、明るい驚きに満ち満ちたのだ。近江楽堂の高い天井に、舞い上がって降りてくるガット弦のまろやかな響き、そして目まぐるしいメロディ運び。シンプルかつ朗らかなメロディながらも、曲のパターンを追うことができない。私たちは驚いて、ついて行くのに必死になった。(私は、というよりも私たち、と言った方が近いだろう。そのくらい空気が変わったのだ)しかし、この移り気なメロディに、何だか妙に楽しくなってきたのだ。
ミヒャエル・ハイドンの音楽は遊び心に溢れている。予測不能な音にドキドキさせられながら、全く目(耳?)が離せない。この、ちょっとはしゃぎたくなるような高鳴り。スリリングでちょっとムズムズする感じ。何だったっけ、この感じ。いつのまにか、私は頭の中で適切な言葉を探し始めていた。しっくり来たのは「ときめき」だ。心理学でいう「吊り橋効果(吊り橋のような不安定な場所で出会った男女は恋に落ちやすい)」みたいなものじゃないかと思ったのだ。ミヒャエル・ハイドンの音楽には、人々を高鳴りに誘うような「何か」がある。第1回目のタイトル「優美で多感な」という形容詞が、実はあまりに的を得ていたことに思わず鳥肌。第4楽章の始まる頃には、すでに万華鏡のようなミヒャエル・ハイドンの世界に引きこまれていた。
次いで演奏されたのは「ディヴェルティメント ハ⻑調 MH179」。先程のディヴェルティメントですっかり温まった場にオーボエの三宮正満氏が加わり、遊びの精神がさらに増した。第1楽章は上機嫌なアレグロ。第2楽章では山本徹氏のチェロ(バッソ)が地鳴りのように響き、その上をオーボエとヴァイオリンがなめらかに滑っていく。終楽章(第6楽章)、楽しい「ノリ」は最高潮に達する。クラシックの演奏会なのだということを忘れそうになるほどのエキサイティングなラストだった。最後の「四重奏曲 ハ⻑調 MH600」では「くの字」に曲がったオーボエ「コルノ・イングレーゼ」が登場したが、甘めの音を出す古楽オーボエと、それに応える弦楽器アンサンブルの掛け合いの賑やかさに、またしてもキュンとなって悶えてしまいそうだった。
#02 モーツァルトとの友情『ヴァイオリンとヴィオラの二重奏2021年10月14日(木)近江楽堂
昼の部と夜の部で、合計6曲のヴァイオリンとヴィオラによる2重奏曲が演奏された。このうち4曲(MH.335・MH.336・MH.337・MH.338)はミヒャエル・ハイドン作だが、2曲(K.423・K.424)はモーツァルト作である。この6曲は、ザルツブルク宮廷を辞めてウィーンに活動の場を移したモーツァルトが結婚後に初めて里帰りした際、急病のミヒャエル・ハイドンを手伝って書いた曲だ。
そういえば、このエピソードを聞くと真っ先に思い出してしまうモーツァルトの手紙がある。当時モーツァルトはザルツブルク宮廷を抜け出したい一心で、パリへ就職活動に出ていた。その時に、父レオポルトが地元ネタとして酒好きのミヒャエル・ハイドンの失態について手紙に書いた。その返信である。
(1778年7月9日 パリよりザルツブルクの父レオポルドへ) ハイドンさんの酩酊のことでは本当に笑ってしまいました。ぼくがその場にいたら、さっそくあの人の耳にそっと「アードルガッサー(ハイドンの前任者でオルガン演奏中に卒中で倒れた)」と言ってやったでしょう。それにしても、あんなに巧い人が自分のせいで務めを果たすことができなくなるなんて、何たる恥でしょう。(中略)――そんなことも、ぼくがザルツブルクが嫌いになる主な理由の一つです。粗野な、やくざな、だらしない宮廷音楽。たしなみのあるまともな人間なら、あの人たちとは一緒にやって行けません。 楽団がマンハイムのように配慮されていたら、どんなにいいことでしょう!その管弦楽団には服従ということが行きわたっています。(中略)あの人たちの行動は違います。しつけがあり、身だしなみもよく、飲み屋に入って酔っ払ったりしません。(岩波書店『モーツァルトの手紙 その生涯とロマン・下』柴田治三郎 訳・編 P.167)
モーツァルトはパリの直前にマンハイムで職を求めていた。最新の規律正しいマンハイム楽団の様子を見て、ザルツブルクの旧態依然とした仕事ぶりに、改めて幻滅したのだろう。しかし同時に、いかにモーツァルトが(酒以外のことでは)ミヒャエル・ハイドンを慕い、彼の音楽を認めていたかがわかる。
今回のコンサートは前回のような高揚感はなく、全体的にしっとりした雰囲気で進んでいった。そしてしみじみと、ミヒャエル・ハイドンとモーツァルトの音楽の違いを比較することができた。モーツァルトの音楽は軽いと一般的には言われているが、それは他の時代の作曲家に比べたらという話だ。「古典派」として一括りにされがちな音楽の中にも、目指す音楽性はそれぞれ違うのだという(考えてみれば当たり前の)ことを改めて感じさせてくれた。
実際に両者を交互に聴き比べてみると、モーツァルトが(当時としては)いかに「重めのワイン」みたいな音楽だったかがわかる。ミヒャエル・ハイドンのメロディやモチーフの多彩さ、目まぐるしさはモーツァルト以上だ。それは「ビールに酔った2人の早口の会話」のように賑やかだ。一方のモーツァルトは、緩急のアクセントが強く、タメも長い。まとまりをより意識しているように思う。さらに、2重奏曲でありながらも、2重奏曲以上の厚みをあえて求めているようにも思えた。ヴァイオリンが独奏、ヴィオラがオーケストラ、そんな「コンチェルト性」を感じるのだ。夜の部のラストで演奏されたミヒャエル・ハイドンの「ソナタ ヘ⻑調 MH.338 P.130」には、比較的モーツァルト的な要素が感じられたが、それにしてもモーツァルトほどの大劇場性や重厚感はそれほどでもない。ミヒャエルの「ほろ酔い」的な音楽と比較すると、モーツァルトの音楽に対する理想の高さゆえの「生真面目な一面」が、改めて浮き彫りになってくるようだった。
とはいえモーツァルトは、ミヒャエル・ハイドンの音から多くのインスピレーションを得ていたのは確かだ。布施氏も書いていたところだが(おそらくモーツァルトにとっても)ミヒャエル・ハイドンの音は「宝探し」のようだ。しかも原石でゴロゴロ転がっている。年上の、気のいい鉱石屋から仕入れた原石。それを大切に磨いて一粒の宝石にするモーツァルト。2人の仕事は、そうやって互いに影響を及ぼし合っていたのだろう。静かなる「胸熱」プログラムだった。
#03 酒に溺れた男の音楽劇『ヴェルグルのバス弾き』
2021年11月19日(金)・20日(土)北千住BUoY
総監督:布施砂丘彦/演出:植村真/ドラマトゥルク/翻訳:相馬
(お酒の大好きな)ミヒャエル・ハイドン作のジングシュピール『ヴェルグルのバス弾き』本邦初の上演である。あらすじはシンプルだ。「酔いつぶれて帰宅する男(バス弾き)を怒って家に入れない女。男はいじけて「川に飛び込むぞ」と脅す。女は心配になって川まで行ってみるが、そうしているうちに男はちゃっかり帰宅していた。夫婦は仲直り」。今回は『酒に溺れた男の音楽劇』として、オリジナルストーリーの前後に多少肉付けし、現代の「コロナ禍のいま」として演出し直すという試みである。
場所は、第1・2回の近江楽堂(東京オペラシティ)から方向転換し、北千住の飲み屋街の奥である。これは何かありそうだ。演目と場所は関係なさそうでいて、実は世界観の構築に密接に関係し、相乗効果を生み出す。だから今回の音楽劇の演出は、すでに北千住駅を出たところからすでに始まっている。そう(ミヒャエル・ハイドンと同じ)酒好きのバス弾きの物語だもの、同じ空気感を味わわなければ!というわけだ。会場(物語の舞台そのもの)である廃墟のような地下のBARにつく頃には、観客の心の準備もすっかり「出来上がって」いる、という仕掛けだ。
客入れのあいだ、舞台ではすでに芝居が始まっている。設置されたBARにバーテンダー。酒を求めてやってくる客に「酒類提供禁止」の紙を見せ、やんわり断りをいれる。不服そうに帰ってゆく者、ミネラルウォーターで我慢する者、いろいろだ。客は一人、また一人とBARから出てゆき、その隣にあるそれぞれの楽器の前に座ってゆく。彼らはキャストでもあり、今回の舞台の演奏者でもあるのだ。さりげない始まり方が実にお洒落な演出だ。
やがて暗くなった舞台に、一瞬の間があり、絶妙なタイミングで「ディヴェルティメント変ホ⻑調 MH. 9」の 第1楽章が始まった。勢いのある曲調とともに、BARに主人公のバス弾きの男が入ってきた。しきりに酒を求め始める。バーテンダーは困惑しつつも、少しだけなら、という身振りで酒を出す。こうなったら2人は止まらない。やがて音楽は「シンフォニアト⻑調」に変わり、まったりとした時間が流れる。そろそろ帰らなきゃ・・・男は家路についた。『酒に溺れた男の音楽劇』の始まりである。女は怒って主人を家に入れない。ついに男は歌う。「川に落ちてやる、もう止められないぞ」と。
単なるなじり合い、いじけ合いの夫婦喧嘩オペラのはずだった。しかし物語が進むにつれ、困惑させられることになった。男は脅しではなく、本当に川に飛び込んでしまったのだ。追いかける妻。結局ラストで2人が仲直りできたのは「死後の世界」で、ということになっていたのだ。なんという演出か。正直、このラストには面食らった。「自分は今、どう反応するのが適切なのか」と、戸惑った。演奏家も巻き込んでのお洒落な演出。屈託なく明るい夫婦喧嘩のレチタティーボ。なのに、ざらっとした感触が残る。ちょっとした「怪談」を聞いた時のようだ。生き生きとした口喧嘩の歌声のすぐ脇には、死への冷たい川が存在していたのだ。その生と死のコントラストに、意表をつかれた音楽劇だった。お酒、川――タロットカードなどでは、液体は「感情の象徴」として考えられているが、この夫婦もまさにそれで、一時の感情に「飲まれた」「溺れた」悲劇である。底の浅い会話のすぐ隣にある深き水底。いやしかし、コロナ禍で浮き彫りになったが、私たちの「生のすぐ隣り」にはいつもこうした世界がある。普段は見えないが、不安定な時勢の中では浮き彫りになるのだ。
舞台そのものは1時間程度だったが、駅からの行程や客入れの芝居から考えると、もっと長いストーリーになるだろう。世界観の構築にこだわることで、演者と演奏、出演者と観客、そして物語空間と現実、それぞれの境界が交じり合い、まさに「開かれた世界」が実現された舞台だったと思う。男(バートル)役・渡辺祐介氏の「古楽向きの声」はとても柔らかで哀愁がある。場に馴染み、とても耳に残った。
#04 ミヒャエル・ハイドンの後任者『番外編!ディッタースドルフの弦楽作品』
2021年12月10日(金)自由学園明日館
今回は、ミヒャエル・ハイドンがザルツブルク宮廷に着任する前に在籍していたグロースヴァルダイン宮廷で、彼の後任者となったディッターズドルフ(1739-1799)の音楽がプログラムされている。現在ディッターズドルフは、主に弦楽器の試験やオーディション用の曲として知られる名前であり、一般の演奏会ではほとんど演奏されない。ミヒャエル・ハイドンの曲は1曲もやらず、オール・ディッターズドルフとは、かなり挑戦的なプログラムだが、プレトークでの布施氏曰く、ディッターズドルフもまた「ミヒャエル・ハイドンと同様に不当に評価されていない作曲家の1人」だと考えてのことだという。
はじめに演奏されたのは「6つの弦楽三重奏曲より第1番ニ⻑調」だ。ヴァイオリン2、ヴィオローネ(コントラバス)1の3重奏。第1楽章では、さっそく覚えやすい旋律が出てきて、しかも素朴な風合いもあり、ホッとさせられた。いかにも教則本という感じだったら味気ないだろうな・・・そんな不安もすぐに打ち消され、明朗かつ伸びやかだ。聴き進めていくうちにわかってきたのだが、ディッターズドルフには、ハイドンの軽さ、モーツァルトの美しさはないが、「俺の○○的」な野性味がある。2曲目の「6つの弦楽三重奏曲より第2番ト⻑調」第1楽章では、コントラバスのボディをパーカッションのように叩いて、力強い内からのリズムを表現する箇所もあり、ミヒャエル・ハイドンの遊戯性とは違うワイルドな遊び心を感じた。
何といっても今回の目玉は、当時ディッターズドルフが想定していた「ウィーン式調弦」のコントラバス「ヴィオローネ」で演奏される「ヴィオローネ協奏曲第1番変ホ⻑調より 第1楽章 Allegro (ヴィオラとヴィオローネのための/布施砂丘彦編曲)」だ。プレ・トークで布施氏本人からウィーン式調弦の説明があり、どんなふうに聴こえるか楽しみにしていたが、説明のとおり、ヴィオローネから奏でられる和音は、現代では封印してしまった「非合理的な歪み」を再現したような、どこか神秘的な音がする。18世紀当時に聴かれていた彼の音楽は、むしろこんなにも豊穣だったのか。しかし、こうした昔ながらの独特な調弦方法ゆえに、現代の楽器や演奏にはそぐわず、今ではカットされたり改編されたりして演奏されることが多いというディッターズドルフの音楽。本来の豊かさが削ぎ落されて、ストイックで筋肉質なものになり、それこそ点数や合否を判定するためだけの音楽にされているとは、何とも勿体ないことである。
最後に演奏された「6つの弦楽三重奏曲より第3番ヘ⻑調」第2楽章(Presto)は、特に気に入った。フーガから始まりドラマチックに終わる。2種類の、別々に調弦された2台のコントラバスとヴィオローネ。運指も違う楽器を曲ごとに弾き分け、生き生きとした音色を再現した布施氏には、ただただ拍手しかない。
#05 ナチュラルホルンの宇宙技芸『ホルンと弦楽のディヴェルティメント』
2021年12月27日(月)仙川フィックスホール
いよいよ「ミヒャエル・ハイドン・プロジェクト」も最終回。今回は、18世紀当時でごく普通に使われていただったホルン、バルブのないナチュラルホルンの音色の宇宙を紐解く。また、兄であるヨーゼフ・ハイドンの曲も1曲折り込まれている。演奏家の顔ぶれも懐かしく、特に布施氏に次ぐ出演回数の多さだった弦楽器の2トップ的役割、⼭本佳輝氏と丸⼭韶氏の演奏を再び聴けるのが、もうひとつの楽しみでもあった。
1曲目と3曲目は、弦楽器のみ。最初はミヒャエル・ハイドンの「ディヴェルティメント 変ロ⻑調 MH.10」で、ミヒャエル若き頃の作品だ。第1楽章が始まった途端、3か月前の第1回目コンサートで、初めて聴いたあの驚きが、ふたたび蘇ってきた。やっぱりミヒャエル・ハイドンのメロディは面白い。第2楽章Andante、第3楽章メヌエット、そして第4楽章のPresto。あっという間だったが、なんとこの曲は、生で演奏されない限り、CDでもyoutubeでも見当たらないらしい。思いきりエンジョイして聴いてしまったが、もう一度あのフレーズを・・・となっても、せいぜい断片を思い出すくらいしかできないのが悔しい。3曲目の「ディヴェルティメント ト⻑調 MH.6」も、心に残る音型がたくさん出てきて、どれも忘れ難く、もうどうしようか…とすら思った。特に主題のインパクトは素晴らしく、第1楽章の「ソ|レレレレ|レtr~」は、これだけは暫く耳について離れなかった。
ミヒャエル・ハイドンの音型やヴァイオリンの音色を表現するならば、それは「カワイイ」だ。静的な「愛らしい」ではない。もっと動的な「カワイイ」だ。若者達のおどけ方に似ていて、こちらまでつられて笑顔になってしまうような魅力がある。そして「ほおー!よくこれを考えたなあ!」という驚嘆の混じった感心と。
2・4曲目でナチュラルホルンが登場する。2曲目の「ディヴェルティメント 変ホ⻑調 Hob.IV:5」は、兄ヨーゼフ・ハイドンの曲である。陽気で牧歌的な曲調は、あの穏やかな肖像画を思い起こさせたが、彼がホルンに求めた技巧はかなりのものだったのだろう。これはもう弦楽器とホルンの「対等な」会話レベルだ。ホルンの高低を瞬時に行き来するパッセージ。音程を取ることの難しさはあるが、藤⽥⿇理絵氏のナチュラルホルンの音は味わい深い雑味があり、存在感がすごい。現代のバルブの付いたホルンの音階しか聴いてこなかった私にとっては、前回と同じ新鮮さがあった。
ラストはミヒャエル・ハイドンで締められた。ヴィオラとウィーン式調弦のヴィオローネ、そしてホルンという、奇妙なメンバーの「ディヴェルティメント ニ⻑調 MH.173」。不思議だった。さりげなさ曲の中に、ときどき深みが顔を出す。ナチュラルホルンには、現代のホルンと違って「出せない音」がたくさんある。しかしその「制約」があるからこそ最大限にそれを活かそうとする思いと、技術と、味わいがあるのだ。中盤以降になって、ふと、前回のディッターズドルフに聴いた「深い響き」が3つの音色から立ち上がってきた時は、震えた。1周してわかったこと、つながったことが、ここにある。それはとても感動的だった。こうして、ミヒャエル・ハイドンとピリオド楽器を巡る旅は、帰還の時を迎えたのである。
まとめ――全員参加型の能動的プロジェクト
すべての回を聴き終わった今、思うこと。それは、忘れかけられていたものを再発見するということの面白さと難しさである。
歴史の中で、一度は聴衆や音楽家たちに忘れられてきた音楽の価値を再発見する試みは、並大抵のやり方では定着させられないだろう。音楽家だけがその真価を認めていても、曲を並べて演奏会として聴かせるだけでは、足りないのではないかと思うのだ。なぜならば、まず「評価されなかった」ということへの様々な問いが、未解決のままになっているからだ。そして音楽だけでは、その答えにたどり着けないと思うのだ。なぜ忘れ去られたのか?どういう部分が見直すポイントなのか?当時のテクニカルな面(楽器の技術など)に要因があるのか?当時の演奏は実際のところどうだったのか?そしてここに現代の聴衆に対応できる何らかのエッセンスはあるか?このプロジェクトは、それを克服するべく、あらゆる境界(ジャンル)を乗り越えてミヒャエル・ハイドンに近づこうとした。音楽・芝居・歴史・言葉・場所――このいうなれば「全方位から」音楽世界に迫ろうとすること。そして今まで評価されなかった作曲家の価値を、演奏家だけでなく聴衆も巻き込んで、一緒に発見していこうとすること。そこに大きな意義があったのだと思う。
ここでは、演奏家は単に「聴かせる者」というだけでなく、同時に「問う者」として存在している。「この人の音楽、どうですか?」「どんなふうに感じますか?」「気に入った曲はありましたか?」と尋ねられているようだった。だから聴衆も受動的ではいられない。そもそも、ほとんど真っ白(だからキー・ビジュアルが白いのだろうか?)な状態から、自分なりの意味や手ごたえを見つけて帰る――それは通常のコンサートでは発動しないレベルの、能動的なエネルギーを必要とするのだ。演奏家と聴衆がともに同じ方向からミヒャエル・ハイドンという対象を見て、何らかの価値を見出そうとすること。こうした共同作業こそ「批評の本質」であり「音楽体験」なのではないか、そう思った。
さいごに・・・
今回のプロジェクトでおおいに楽しめたことがある。それはミヒャエル・ハイドンだけでなく、彼と水平方向に関係のあった同時代の作曲家・演奏家を、優劣抜きにして比較することができたことだ。同時に「古典派」と呼ばれる音楽の楽しみ方・遊び方を再確認させられた。バロックの「宗教の時代」から「遊戯の時代」へ。まるでパズルかゲームのようにパーツを組み合わせ、アレンジし、少々の逸脱をも許容しながら、形式はとりあえず保つ。この時代ならではの「遊戯性」だ。ミヒャエル・ハイドンはその時代の重要な結節点のひとつでもあるのだ。しかし個々の音楽性・方向性は十人十色で、それぞれの良さがある。古典派の時代は意外に短い。すぐに長い「芸術の時代」がやってくる。その一瞬の輝きを見事に切り取った、素晴らしい機会だったと思う。
しかしまだ、私たちはミヒャエル・ハイドンの一面を見たに過ぎない。西川尚生氏のレクチャーによると、彼の本領は宗教音楽なのだ。果たして「シーズン2」はあるのか?!
今後も「ミヒャエル・ハイドン・プロジェクト」に大いに期待したいと思う。
越水玲衣(Koshimizu Rei)/エッセイスト
16歳の時、映画雑誌主催のシネマ・エッセイで大賞受賞。以来、エッセイやコラムの寄稿、市民劇の舞台脚本などを手掛ける。
2018年、モーツァルトの手紙を紹介するブログ「明日のためのモーツァルト」を開始。
2020年よりペンネームを越水玲衣として活動。「日常の気づきや不思議」「芸術や哲学を体験として捉えること」をテーマにエッセイや評論を執筆している。
映画『アマデウス』の大ファン。12歳から300回以上は観ている「アマデウス・マニア」
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