慶應義塾大学文学部教授(音楽学)
西川 尚生
「忘れられた巨匠」として
ミヒャエル・ハイドン(1737-1806)は長い間、「忘れられた巨匠」でした。ミヒャエル・ハイドン研究の第一人者で作品目録も編纂しているチャールズ・シャーマンは、1967年の博士論文の中で、ハイドンがその死後に忘れられた理由として、以下の3点を挙げています。
1.「ハイドン」の名がもっぱら兄のヨーゼフと結びつけられるようになり、兄が有名になるにつれて弟のミヒャエルの名が忘れられるようになった。とりわけ兄ヨーゼフが晩年(1790-95年)におこなったロンドン旅行での成功以降、その傾向が強まった。また、ザルツブルク宮廷の同僚だったW. A. モーツァルトの活躍が注目されたことで、ミヒャエル・ハイドンの存在がその陰に隠されてしまった。
2.ミヒャエル・ハイドンが最も力を入れ、得意にしたのは教会音楽だったが、それは一般の聴衆が接することの少ないジャンルであり、世俗音楽が隆盛を誇った18世紀末から19世紀という時代に人気を得ることが難しかった。
3.ミヒャエル・ハイドンは出版用に作品を書くことがほとんどなく、自身の作品が広まるために尽力することもなかった。彼の音楽はオーストリア内の教会や修道院では筆写譜の形で流布していたが、一般には広まらなかった。
生前は教会音楽の大家として名声を博し、多くの優秀な弟子を育てたミヒャエル・ハイドンでしたが、19世紀を通じて徐々に忘れ去られていきました。
20世紀初頭には楽譜選集『オーストリア音楽遺産 Denkmäler der Tonkunst in Österreich』のシリーズで、ミヒャエル・ハイドンのいくつかの作品が2巻に分けて出版され、そこには器楽曲と教会音楽に関する初の作品目録が収録されました(ペルガー編の器楽曲目録[1907年]とクラフスキー編の教会音楽目録[1925年])。
しかし、一般の演奏会でその作品が演奏されることは稀であり、ミヒャエル・ハイドンの知名度は相変わらず低いままでした。1952年にハンス・ヤンツィク(Hans Jancik)が350頁を超えるミヒャエル・ハイドンの初の包括的な伝記を刊行しましたが、そのタイトルは『ミヒャエル・ハイドン 忘れられた巨匠 Michael Haydn:Ein vergessener Meister』というものでした(図版1)。この「忘れられた巨匠」という言葉は、以後、ミヒャエル・ハイドンについて語られる際の代名詞となるのです。
図版1:ヤンツィク『ミヒャエル・ハイドン 忘れられた巨匠』(1952年)
ミヒャエル・ハイドン復活の兆し
しかしこうした状況は、1人の音楽学者の登場によって徐々に変わっていくこととなります。1966年にゲアハルト・クロル(Gerhard Croll)がザルツブルク大学に教授として着任し、この地の最も重要な作曲家であるミヒャエル・ハイドンの音楽の復興・普及に取り組み始めたのです。クロルはモーツァルトとグルックの研究者としても有名ですが、ミヒャエル・ハイドンにも並々ならぬ情熱を傾けて、研究に着手したのです。おそらくクロルはモーツァルトを研究していく中で、ミヒャエル・ハイドンがいかに重要な存在であるかを痛感したのでしょう。クロルだけでなく、クロルの弟子たちもミヒャエルの研究に従事し、1970年代から博士論文や個別の雑誌論文の形で、その成果が発表されていくこととなります。ザルツブルクの中でミヒャエル・ハイドンの楽譜資料が最も豊富に残されているのは、大聖堂のアーカイヴと聖ペテロ修道院の図書館ですが、クロルの弟子たちは、それら膨大な手稿譜を整理し、目録化していきました。今日のミヒャエル・ハイドン研究の基礎は、こうした研究者たちの地道な努力によって構築されていったわけです。クロルは楽譜だけでなく、ミヒャエルの遺品や書簡、本人が使用した鍵盤楽器、同時代の肖像画まで、幅広く学術調査を行い、ミヒャエル・ハイドンという作曲家を総合的に理解しようと努めました。
1983年にはクロルが中心になって、ザルツブルクにミヒャエル・ハイドン協会(Johann-Michael-Haydn-Gesellschaft)が設立されます。これはミヒャエル・ハイドンを中心とするザルツブルクの音楽の研究と普及を目指した団体であり、ここを拠点にさまざまな情報発信が行われ、演奏会や展覧会が企画されるようになりました。
ミヒャエル・ハイドン生誕250年の1987年は、ミヒャエル・ハイドン復興に向けた動きが本格化した、記念すべき年といえるでしょう。この年に刊行されたゲアハルト・クロル、クルト・フェッシング共著の『ミヒャエル・ハイドン その生涯、創作、時代 Michael Haydn: Sein Leben-sein Schaffen-seine Zeit』は図版が豊富に使われた伝記で、一見すると一般向けの啓蒙書のように見えますが、ミヒャエル・ハイドンの生涯と作品に関する諸問題を網羅的に論じた研究書であり、クロルのそれまでの研究が集大成された、学術的にも重要な著作です(図版2)。
また同年には、楽譜叢書『ザルツブルク音楽遺産 Denkmäler der Musik in Salzburg』の一環として「ミヒャエル・ハイドン作品選集」が企画され、その最初の巻として、ミヒャエルの《セレナード ニ長調》MH.86(Perger 87)が刊行されました(図版3)。『ザルツブルク音楽遺産』はザルツブルクの隠れた作曲家、作品に光を当てる楽譜シリーズですが、ミヒャエル・ハイドンはその重要な柱となり、以後、1990年にはオッフェルトリウム《うるわしの創造主なる神の御母》MH.221、1991年には《弦楽五重奏曲 ヘ長調》MH.367、1996年にはパントマイム《夢 Der Traum》MH.84、2007年にはドイツ語オペラ《牧場の婚礼 Die Hochzeit auf der Alm》MH.107、2016年にはドイツ語オペラ《自然の真実 Die Wahrheit der Natur》MH.118が「ハイドン作品選集」の枠内で刊行されています。同シリーズは、1970年代からミヒャエルの器楽曲を積極的に刊行していたドブリンガー社(ウィーン)の楽譜叢書Diletto musicaleのシリーズとともに、ミヒャエルの作品の普及に貢献しました。この『ザルツブルク音楽遺産』の企画と刊行も、クロルとその弟子たちによって進められたものでした。
1987年にはさらにザルツブルクの恒例の国際モーツァルト会議(国際モーツァルテウム財団中央研究所主催の学術会議)において、ミヒャエル・ハイドンがシンポジウムのテーマの一つに選ばれ、彼の生涯と作品に関する最新の研究成果がクロルを含む10人の研究者によって発表されました。それらの論考は、『モーツァルト年鑑 Mozart Jahrbuch』1987/88年号にまとめられています。
このような学術的研究の進展、楽譜選集の刊行と相まって、演奏の場でも、頻繁とはいえないまでも徐々にミヒャエルの作品は取り上げられるようになっていきました。とくに、1980年代以降、教会音楽や交響曲、室内楽などのレコード、CDの点数は確実に増えたといえます。
とはいえ、一般の知名度という点では、ミヒャエル・ハイドンは未だ無名に近く、知る人ぞ知るという存在でした。『オーストリア音楽雑誌 Österreichische Musikzeitschrift』は1987年6月号で、生誕250年のミヒャエル・ハイドンと没後200年のレオポルト・モーツァルトの特集を組みましたが、巻頭に掲げられたレオポルト・カントナーの論考のタイトルは、「ミヒャエル・ハイドンとは誰か? Michael Haydn- Wer ist das ?」というものだったのです。本場のオーストリアでさえ、一般の愛好家にとってミヒャエル・ハイドンは馴染みのうすい作曲家だったわけです。
図版2:クロル/フェッシング『ミヒャエル・ハイドン その生涯、創作、時代』(1987年)
図版3:《セレナード》MH.86の印刷譜タイトル・ページ
作品目録の刊行と相次ぐ楽譜出版
1990年代に入り、1冊の画期的な書物が登場します。アメリカにおけるミヒャエル・ハイドン研究の第一人者であるチャールズ・シャーマン(Charles H. Sherman)がドンリー・トーマス(T. Donley Thomas)と協力して、ミヒャエルの作品目録を刊行したのです(図版4)。『ミヒャエル・ハイドン その作品の年代順主題目録 Michael Haydn: A Chronological Thematic Catalogue of His Works』と題されたこの目録は、モーツァルトの『ケッヒェル目録』と同様、ミヒャエルの全作品を作曲年代順に並べ、通し番号をふったものです。作品番号にして838の作品が収録されており、各曲の冒頭譜や作曲年代、楽器編成、現存楽譜に関する基本情報が記されています。この目録はシャーマンとトーマスがヨーロッパ各地に散在するミヒャエル・ハイドンの楽譜資料を網羅的に調査し、30年がかりで完成した労作ですが、これによって、ミヒャエル・ハイドンの作品の全容が初めて明らかになったといえるでしょう。研究者のみならず、演奏家や一般の愛好家がミヒャエルの作品の情報をいつでも得られるようになったのです。前述したぺルガーの器楽曲目録(P番号)、クラフスキーの教会音楽目録(K番号)など、ジャンル別の作品番号はこれまでもありましたが、シャーマン/トーマスの目録の刊行によって全ジャンルの統一的な作品番号(MH番号)が使用されるようになりました。この目録に目を通せば、ミヒャエルがこの時代のほとんどすべてのジャンルに膨大な作品を残した、古典派を代表する作曲家であったことが実感できるに違いありません。ちなみに『ケッヒェル目録』の初版刊行は1862年ですので、ミヒャエルの研究がモーツァルトに比べていかに立ち遅れていたかは、この一事を見てもよくわかります。
1990年代から2000年代にかけて、ミヒャエル・ハイドンに関する情報が飛躍的に増大し、優れた校訂楽譜が次々に刊行されたこともあり、演奏家や一般愛好家の間でミヒャエルの認知度はかなり上がってきました。
ザルツブルクではミヒャエル・ハイドン協会が中心になって、毎年秋のミヒャエルの誕生日前後に連続演奏会が催されていますが、近年はミヒャエルの舞台作品の復活上演が集中的に行われています。それらの演奏は、音楽史上の埋もれた傑作に光を当てるCPOのレーベルからCD化され、好評を博しました。一番新しい例でいえば、2018年にミヒャエルのオペラ・セリアの代表作《エンディミオーネ》MH.186が242年ぶりにザルツブルクで上演され、その演奏が2021年にCD化されました(図版5)。従来の教会音楽や器楽曲の作曲家という評価に加え、劇音楽の作曲家としてのミヒャエルに俄然注目が集まっています。
ミヒャエルの教会音楽の普及という点では、近年のカールス社(Carus Verlag)の楽譜が見逃せません。シュトゥットガルトに本拠を置くこの音楽出版社では、ミヒャエル・ハイドンの教会音楽と世俗声楽曲の楽譜を現在までに100点以上出版しており、とりわけミサ曲に関しては最初期の作品も含めて網羅的に刊行がなされています(図版6)。これまで楽譜が容易に入手できなかった教会音楽が2000年代に入ってから続々と出版され、世界中の合唱団のコンサートや教会の典礼で、ミヒャエルの作品が頻繁に取り上げられるようになっています。YouTubeではそうした演奏も含め、今まで音で聴くことのできなかった珍しいミヒャエル作品の演奏が、数多くアップロードされるようになりました。1980年代に筆者がミヒャエルに興味を持ち始めた頃は、ごく限られた曲の録音しか聴くことができなかったことを思うと、まさに隔世の感があります。
図版4:シャーマン/トーマス編『M. ハイドン作曲年代順主題目録』
図版5:《エンディミオーネ》復活上演のCD
図版6:《聖ヒエロニムス・ミサ》MH.254印刷譜(カールス出版)
真の復活に向けて
2006年はW.A.モーツァルトの生誕250年であると同時に、ミヒャエル・ハイドンの没後200年の年でもありました。ザルツブルクでは同年10月に3日間にわたって「国際ミヒャエル・ハイドン会議」が催され、世界中から研究者が集まり、学術的な研究発表と討論が行われました。日本からは筆者が参加し、ミヒャエルのセレナード・ディヴェルティメント類におけるバス楽器の問題について発表しました。3日間で取り上げられたテーマはミヒャエルのあらゆる作品ジャンルに及んでおり、作品の様式や作曲年代の問題、真偽問題、演奏実践の問題、他の作曲家への影響や受容の問題など、きわめて多岐にわたるもので、ミヒャエル・ハイドン研究の広がりを感じさせるものでした。この会議の成果は、17本の論文から成る論文集として2010年に刊行されています(図版7)。
一方、ここ数年の間に、ミヒャエル・ハイドン復興の立役者ともいうべき2人の偉大な音楽学者が、相次いで世を去りました。2018年にミヒャエルの作品目録を編纂したチャールズ・シャーマンが88歳で亡くなり、2020年にはミヒャエル研究のパイオニアであるゲアハルト・クロルが92歳で亡くなったのです。2人の死は、ミヒャエル・ハイドン研究の一時代の終焉を象徴するものといえますが、この2人の研究者がいなければ、ミヒャエル・ハイドンの研究や作品の普及は、現在とは全く異なるものになっていたに違いありません。40~50年遅れることになっていたと言っても、決して言い過ぎではない気がします。
そしてこの原稿を校正している最中に、もう一つの訃報が入ってきました。本年(2021年)10月に、世界的なモーツァルト学者であり、長らくテュービンゲン大学の音楽学主任教授を務めたマンフレート・ヘルマン・シュミットが74歳で亡くなったという知らせです。シュミットはミヒャエル・ハイドンに早くから着目し、クロルとともにドイツ語圏のミヒャエル研究を牽引した学者でした。シュミットが若き日にクロルの指導の下で編纂した『ザルツブルク・聖ペテロ修道院楽譜資料目録』(1970年)は、今日のミヒャエル・ハイドン研究、およびザルツブルク音楽史研究の基礎を築いた、画期的な業績といえます。またシュミットが執筆したドイツ語音楽事典MGG(Die Musik in Geschichte und Gegenwart)の「ミヒャエル・ハイドン」の項目(2002年)は、ミヒャエルに関する研究の現状を反映したきわめて充実した論考であり、ミヒャエル研究の基本文献となっています。シュミットは近年もミヒャエルの教会音楽や器楽曲に関する論文を精力的に発表し続けていただけに、その突然の死は大いに悔やまれます。
さて、ミヒャエル・ハイドン受容の現状について考える上で興味深いのは、2020年にウィーンで刊行された論文集です(図版8)。ミヒャエル・ハイドンに関する最新の研究を集めたものですが、注目したいのはそのタイトルです。ドイツ語の原著通りに書けば『„…dauert ewig schön und unveraltet…“:Michael Haydn-kein vergessener Meister!』となります。最初の「„…dauert ewig schön und unveraltet…“」は1806年にミヒャエルが亡くなった際に彼の弟子が書いた追悼記事からの引用で、ミヒャエルの音楽を評して「……永遠に美しく、廃れることがない……」と述べた部分です。その次の「Michael Haydn-kein vergessener Meister!」は明らかに前述したヤンツィクの伝記(1952年)のタイトルをもじったものであり、ヤンツィクの「忘れられた巨匠 ein vergessener Meister」に対し、こちらは「kein」という否定冠詞を付けて、「忘れざる巨匠」にしているのです。「!」を付けて強調されたこのサブタイトルは、「ミヒャエル・ハイドンはもはや忘れ去られた巨匠ではない」「ミヒャエルの音楽は不滅であり、今後も決して忘れられることはない」という、現在のオーストリアの研究者たちの強いメッセージを感じさせるものです。
19世紀という時代が無視し続けた作曲家ミヒャエル・ハイドンは、20世紀後半から21世紀という、我々の時代が新たに「発見した」作曲家だといえます。本稿冒頭の「忘れられた理由」にも書いたように、ミヒャエルの本領が最も発揮されたのは教会音楽のジャンルですが、それらは典礼と深い結びつきを持つために、通常のシンフォニー・コンサートの演目としては取り上げることが難しく、今でもミヒャエルの作品普及のネックになっています。しかし、バッハのカンタータの例に見られるように、そうした典礼と結びついた教会音楽も、現在ではピリオド楽器の演奏会を中心に盛んに演奏されており、多くの聴衆から受け入れられています。ミヒャエルの教会音楽も、今後はより頻繁に、幅広い演奏会の中で取り上げられていくに違いありません。
日本においては近年《レクイエム》MH.155やいくつかの交響曲は演奏頻度が上がっていますが、ミヒャエルの作品が何曲も集中的にコンサートで取り上げられた例はこれまでありませんでした。「ミヒャエル・ハイドン・プロジェクト」はその意味で貴重な試みであり、これだけ多数のミヒャエルの作品を生の演奏で聴ける機会は、欧米においてもめったにないといえるでしょう。我々の時代が「発見した」作曲家であるミヒャエル・ハイドンの音楽が、より多くの人々に愛され、主要な演奏レパートリーとして定着することを願ってやみません。
(2021年11月22日)
図版7:『国際ミヒャエル・ハイドン会議報告書』(2010年)
図版8:『ミヒャエル・ハイドン 忘れざる巨匠』(2020年)
西川 尚生 Hisao Nishikawa
音楽学者。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院博士課程修了。1992~94年までオーストリア政府給費留学生としてザルツブルク大学に留学。2004~06年までウィーン大学訪問研究員としてウィーンに、2016年~17年まで国際モーツァルテウム財団訪問研究員としてザルツブルクに滞在。現在、慶應義塾大学文学部教授。専門はモーツァルトを中心とする古典派音楽史。オーストリア、ドイツ、ハンガリー、チェコ、ポーランドなどで、長年にわたりモーツァルト、ミヒャエル・ハイドンのオリジナル史料の調査をつづけている。著書に『モーツァルト(作曲家 人と作品)』(音楽之友社、2005年)、『進化するモーツァルト』(共著、春秋社、2007年)、論文に「モーツァルト《リンツ交響曲》のオリジナル楽譜をめぐって」(『フィルハーモニー』2007年)、「モーツァルト《ト短調交響曲》K.550の“Corrupt Passage”再考」(『新モーツァルティアーナ』音楽之友社、2011年)、「モーツァルト《クラヴィーア協奏曲 ニ長調》K.175+382の史料批判的研究」(『芸術学』2020年)などがある。
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