今回、#01 優美で多感な娯楽音楽 ならびに #02 モーツァルトとの友情 にてレクチャーをしていただいた西川尚生先生にご寄稿いただきました。ミヒャエル・ハイドンの生涯と音楽について分かりやすく書いていただきましたので、ぜひお読みください。また、転載は固くお断りいたします。(布施)
ミヒャエル・ハイドン ――知られざるその生涯と音楽
慶應義塾大学教授(音楽学)
西川 尚生
もう一人のハイドン
ハイドンと聞くと、誰もが思い浮かべるのが「交響曲の父」ヨーゼフ・ハイドンのことだろう。しかし彼には音楽家の弟がいて、教会音楽の作曲家として兄と肩を並べる存在だったといったら、驚く人もいるに違いない。
この弟、ヨハン・ミヒャエル・ハイドンは、生涯のほとんどをザルツブルクの宮廷音楽家として過ごした。そのため、ドイツ語圏では兄と区別して「ザルツブルクのハイドン」と呼ばれることも多い。ザルツブルクでは今日でも地元で愛される作曲家であり、教会のミサではしばしばその作品が演奏され、毎年9月の誕生日前後には、それを記念するコンサート・シリーズが催されている。
1737年、兄ヨーゼフより5年遅れて、下オーストリア州のローラウに生まれた。ウィーンの南東40キロ、ハンガリーとの国境に近い小さな村である。父は地元貴族に仕える車大工、母は同じ館で働く料理人だった。
ヨーゼフとミヒャエルの兄弟はどちらも幼い頃から歌がとびぬけてうまく、スカウトされてウィーンの聖シュテファン大聖堂のカペルハウスに入った。カペルハウスは少年聖歌隊員の養成機関で、少年たちは寄宿舎で生活しながら、音楽の基礎や歌唱法、算術やラテン語などを無償で教わることができた。ハイドン兄弟はここで数百年つづくウィーンの教会音楽にどっぷりつかり、その伝統を吸収したわけである。
モーツァルトの同僚、友として
変声期を迎えてカペルハウスを去った後、ミヒャエルは兄と同様、独学で作曲の腕をみがいていった。1757年、20歳の時にグロースヴァルダイン(現ルーマニア、オラデア)の司教に音楽家として召し抱えられ、3年後には楽長となった。ところが給料は安く、やりがいが見出せなかったため、より良い職を求めて旅に出た。
1763年、25歳の時にザルツブルクの大司教に才能を認められ、同地の宮廷コンツェルトマイスターに抜擢される。ザルツブルク宮廷では、ちょうどモーツァルト親子が西方大旅行に出かけてしまい、大司教はその穴を埋めてくれる音楽家を探していたのだ。ミヒャエルは着任早々、交響曲、セレナード、教会音楽、ドイツ語オペラなどを次々に作曲していった。
足かけ4年に及ぶ大旅行から帰った時、モーツァルトの父レオポルトは焦ったことだろう。自分たちの留守中にとてつもなく優秀な若手作曲家が雇われ、大司教の寵愛を受けていたからである。レオポルトは当時、宮廷副楽長という楽団のナンバー2の地位にあり、そのままいけば宮廷楽長に昇進することは確実であった。しかし、ミヒャエルの登場によって、下手をするとその地位を奪われかねない状況になったのである。
1769年に13歳のモーツァルトが無給の宮廷コンツェルトマイスターに任命されると、レオポルトだけでなく、息子のモーツァルトとミヒャエルの間にもライヴァル関係が生まれることとなった。とはいえ、レオポルトはミヒャエルを敵視していたわけではなく、彼の才能を高く評価し、作品をしばしば筆写して息子に勉強させている。
息子のモーツァルトも、同僚であり先輩作曲家であるミヒャエルを敬愛し、ミヒャエルが新作を発表するたびに、そこから影響を受けた。たとえば、1773年にミヒャエルが当時新しいジャンルであった弦楽五重奏曲(MH. 187、189)を作曲すると、モーツァルトはすかさずそれをモデルにして、同じ編成の曲を書いた(K. 174)。一方、ミヒャエルの方も若き天才の作品から、しばしば創作上の刺激を受けたようだ。
1771年12月に大司教が急逝し、翌年3月、新大司教にヒエロニムス・コロレドが選出された。イタリア音楽の信奉者だったコロレドは、レオポルトの昇進の願いを聞き入れず、イタリアから有名作曲家を招いて宮廷楽長に据えた。これはモーツァルト親子とミヒャエルの双方にとって、出世の道が事実上、閉ざされたことを意味していた。
1781年6月、不満をつのらせたモーツァルトは旅先のウィーンでコロレドと決裂し、そのまま同地に留まる決意をする。しかしその後も、モーツァルトのミヒャエルの作品への興味は失われなかった。父や姉からミヒャエルの楽譜を送ってもらったり、ウィーンでミヒャエルの新作の楽譜が売り出される度にそれを入手したりしている。1783年の夏から秋にかけて、モーツァルトは新妻コンスタンツェとともにザルツブルク帰郷を果たした。このとき病に伏していたミヒャエルが、大司教に注文された6曲の二重奏曲の残り2曲を完成できずにいるのを知り、モーツァルトが代わりに作曲してあげたというエピソードは有名だ(K. 423、424)。ミヒャエルは2曲の手稿譜を、モーツァルトへの感謝の念とともにずっと大切に保管していたという。モーツァルトのミヒャエルの作品への傾倒は最晩年にまで及んでおり、遺作となった未完の《レクイエム》K. 626にはミヒャエルが20年前に作曲した《レクイエム》MH. 155の影響が色濃くあらわれている。
多彩な作品の数々
ミヒャエル・ハイドンは、68歳で亡くなるまで800曲を超える作品を残した。それらはオペラやオラトリオ、カンタータ、各種の教会音楽、世俗的な声楽小品、交響曲、協奏曲、セレナード、室内楽など、古典派時代のほとんどのジャンルを網羅している。
なかでも作品数が多く、ミヒャエルが熱心に取り組んだのは教会音楽だった。ザルツブルクはカトリックの大司教が治める宗教国家であり、ここの宮廷音楽家に求められたのは、大聖堂を中心とする教会で演奏し、典礼にふさわしい新作を提供することであった。とりわけコロレドの時代になってからは教会改革が断行され、ミサ典礼の簡素化やドイツ語聖歌の導入など、新しい方針が次々に打ち出された。ミヒャエルは大司教の意向に沿うべく、その都度、工夫しながら作曲しなければならなかった。しかしそうした制約の中で、ミヒャエルは一貫して質の高い教会音楽を書き続けたといえるだろう。
1777年に初演した《聖ヒエロニムス・ミサ》は代表作の一つだが、この曲はコントラバス以外の弦楽器を使わず、オーボエを中心とした管楽オーケストラが声楽を伴奏する、きわめて独創的なミサ曲である。レオポルト・モーツァルトはその見事さを、旅先の息子に宛てて事細かに報告している。
器楽曲の分野でも、ミヒャエルは多くの優れた作品を書いた。交響曲は40曲以上あり、その中にはモーツァルトがウィーンで演奏するために、第1楽章に序奏を書き加えた作品もある(MH. 334)。この曲はモーツァルトの作と勘違いされ、20世紀初頭まで、モーツァルトの《交響曲第37番》K. 444と呼ばれていた。
ミヒャエルの室内楽の多彩さは、目を見張るほどである。弦楽のみの曲は二重奏から五重奏まであり、管と弦の混合編成の曲では管楽器のあらゆる組み合わせが試みられている。楽章構成は3楽章から9楽章まで幅が広く、曲想も実に多様である。全体的に素朴だが味わい深く、兄ヨーゼフやモーツァルトの音楽とはまた異なる、独自の魅力を湛えている。ミヒャエル・ハイドン・プロジェクト(第1、2、5回コンサート)の演目からも、その一端を知っていただけるに違いない。
酒飲みハイドン?
最後に今回上演される《ヴェルグルのバス弾き》と絡めて、興味深いエピソードを紹介しておこう。レオポルト・モーツァルトは旅先の息子に宛てた手紙(1777年12月29日付)でこんなことを書いている。
「ところで聖三位一体教会のオルガニストには誰が就任したと思う?――ハイドンさんだよ! 経費がかかるオルガニストだと、みんな笑っています。連祷が終わるたびに、彼は4分の1リットルのワインをグビッとやるのですから。その他のお勤めには、彼はリップに行ってもらうのですが、これがまた大酒を飲みたがる男なのです。」
ミヒャエルは本来、勤勉で実直な性格だったが、この時期は出世の見込みが薄れたせいか、度を越して酒を飲んでしまうことが多かったようだ。ちなみに、ここに出てくる「リップ」はミヒャエルの義父(妻マリア・マグダレーナの父)で、宮廷・大聖堂オルガニストのイグナツ・リップのことである。実のところ、ザルツブルク宮廷楽団には、ほかにも酒好きのメンバーが大勢いたらしく、モーツァルトは父宛の手紙の中で、南ドイツの一流楽団であるマンハイム宮廷楽団と比較しながら、故郷の宮廷楽団をこき下ろしている。
「がさつで、ごろつき風で、だらしないザルツブルクの宮廷楽団。〔……〕マンハイムの楽員たちは礼儀正しく、きちんとした身なりをしていて、居酒屋に行って飲んだくれたりしませんよ。」
《ヴェルグルのバス弾き》の台本を見た時、ミヒャエルは果たしてどんな感想をもっただろうか。ひょっとすると酒飲みの主人公バートルに自分を重ねて、苦笑しながら、作曲の筆を進めたのかもしれない。
西川 尚生 Hisao Nishikawa
音楽学者。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院博士課程修了。1992~94年までオーストリア政府給費留学生としてザルツブルク大学に留学。2004~06年までウィーン大学訪問研究員としてウィーンに、2016年~17年まで国際モーツァルテウム財団訪問研究員としてザルツブルクに滞在。現在、慶應義塾大学文学部教授。専門はモーツァルトを中心とする古典派音楽史。オーストリア、ドイツ、ハンガリー、チェコ、ポーランドなどで、長年にわたりモーツァルト、ミヒャエル・ハイドンのオリジナル史料の調査をつづけている。著書に『モーツァルト(作曲家 人と作品)』(音楽之友社、2005年)、『進化するモーツァルト』(共著、春秋社、2007年)、論文に「モーツァルト《リンツ交響曲》のオリジナル楽譜をめぐって」(『フィルハーモニー』2007年)、「モーツァルト《ト短調交響曲》K.550の“Corrupt Passage”再考」(『新モーツァルティアーナ』音楽之友社、2011年)、「モーツァルト《クラヴィーア協奏曲 ニ長調》K.175+382の史料批判的研究」(『芸術学』2020年)などがある。
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